温泉供給歴史


明治9年日本政府の招きで東京医学校(東京大学医学部の前身)教授として来日 したドイツ人医学者エルヴィン・ベルツは、明治12年頃より温泉研究のため 箱根・熱海・伊香保を訪れ明治13年には日本鉱泉論を著し、内務省に対し温 泉場改革に関する提案をした。

歴史1

さらに明治20年4月18日宮内省に対し「帝国の規模となるべき一大温泉浴場設立意見書」を提出、箱根大涌谷の利用を進言、これにより当時わずか2・3軒の湯治宿が利用しているにすぎなかった大涌谷の源泉地区及び周辺の山林を世伝御料地として買収したが、その後特別施設をすることもなく数名の者に区域を定め噴出する温泉、冷泉の利用をさせているのみでありました。
しかし大正時代に入り箱根も次第に開発の手が入れられ温泉の需要が増加、大 涌谷の利用申請が相次ぎそのため引湯管が併行、交叉そして各人莫大な投資 をしたにもかかわらず噴気孔の移動、枯渇のため常に不安定な状態にありまし た。

一方、明治13年渋沢栄一子爵、益田孝男爵は広大な仙石原の原野750町歩 を利用し耕牧舎の名において牧場を経営、明治14年には牛乳さらにバターの 生産も開始しましたが気候、地味が適さなかったためか所期の成果が得られず 、また現地責任者須永伝蔵の死去もあり明治37年営業を廃止、350町歩を仙 石原村に寄付、残る土地に植林、農業を行うのみでありましたが周辺の交通が 整備されるに伴い大涌谷の温泉を利用しこの土地の再開発を計画したのであり ます。

宮内省内部でも大涌谷源泉の整備、統合が検討されており、これを受けて大涌 谷温泉源を改良拡充して温泉に恵まれない奥箱根の広大な地域に温泉を供給し 土地の開発をはかるため、耕牧舎の関係者渋沢・三井・益田の三家、それに大 倉組代表者等が発起人となり昭和5年9月17日箱根温泉供給株式会社を設立した のであります。

歴史2

それには、大涌谷の地主であった宮内省そして現在の箱根登山鉄道株式会社・ 仙郷楼・万岳楼・俵石閣など当時大涌谷に温泉権を所有しそれぞれの施設、 分譲地まで引湯していた人びとの理解と英断による現物出資、さらに箱根開発の 意気に燃える発起人達の努力の結晶であり、これなくしては現在の大規模な給 湯そして奥箱根の開発は不可能であったと思われます。

そして昨今全国各地の温泉地に於て、湧出量の低下、枯渇から温泉の集中管理 が行なわれるようになりましたが、この最もむずかしい点は源泉の権利の 統合であり、これが成功すればこの計画は殆んど完成したといっても過言で ないといわれております。

たまたま大涌谷の温泉はその泉質から近代的な集中管理システムには適さない ものの源泉権利統合については全国で一番古いものと自負しております。

箱根山頂の難工事も無事に終り、昭和8年8月15日いよいよ給湯が開始されまし たが、その後度重なる災害、太平洋戦争、終戦後財閥関係会社であったため制 限会社となり、関係役員・株主を一新し地元企業としての再出発等々幾多の出 来事を経て今日に至っております。

また、所有地を利用して大涌谷観光センター・プラザ大涌谷・国民宿舎ロッヂ 富士見苑・箱根湖畔ゴルフコース・箱根湖畔テニスパークを関連企業として運 営する一方、箱根カントリー倶楽部・箱根ロープウェイ等の企業、さらに町立 大涌谷自然科学館・神奈川県公園協会箱根大涌谷駐車場に用地の貸付をいたし ております。